痛みの声を聴け 文化や文学のなかの痛みを通して考える

痛みの声を聴け 文化や文学のなかの痛みを通して考える

著者 外 須美夫
ISBN 4-7719-0299-2
発行年 2005年
判型 A5
ページ数 256ページ
本体価格 1,800円(税抜き)
電子版 なし


はじめに

学生の頃に、気に入った文章や言葉をノートに書き写すことを習慣にしていた。もう三十年も前のことだが、大江健三郎や倉田 百三やサルトルやフロムといった表現者たちの言葉から、生き方のヒントや考え方の道標になりそうな言葉を切り取っていた。文学や評論のなかから、心にすと んと落ちてくる言葉や、その時は意味がよくわからなくとも何時か困難な状況に陥ったとき支えになるのではないかと予感させるような表現を切り取り、ノート に書き写していた。ときには、ゲーテやリルケの詩集も書き写したことがあったが、それは、ラブレターに役立たせようという魂胆からで結局成功しなかった。

医者になり、痛みを相手に仕事をするようになって、痛みに苦しむ表現者たちの声や痛みの意味を表現した言葉がノートに増えるようになった。そして、外来 や病棟で患者の痛みの声を聴くうちに、医療では取りきれない痛みがあり、もしかしたら、言葉によってこそ癒される痛みもあるのではないかと思うようになっ た。

第五十回の日本麻酔科学会でそれまで集めたいくつかの痛みの表現を再構成して講演する機会があった。講演を聴いていたある出版社の方が興味を持って下さ り、その内容を医学系の雑誌に連載することになった。その連載を核に加筆して一冊にまとめたのがこの本である。

ちょうど同じ学会で、記念特別講演に招かれた大江健三郎氏が「病気と死についての深い知識の向うにあるもの」というタイトルで講演を行った。病気と死に ついての深い知識の向こうにあるのは、「希望」であり、未来の人間性に希望を持ち続けることであると大江氏は語った。他人の「痛み」を自分のものとして感 じとらせる「想像力」がそれを支える力であるとも語った。私は、大江氏の講演を聴きながら、他人の痛みへの想像力に役立つような痛みの本ができればと思っ た。

この本では、痛みを伝えるために多くの表現者の言葉を借りている。それは、痛みが多面体であるからである。一つの側面からでは到底痛みを捉えることは出 来ない。しかも痛みは人間に関するすべての領域に及んでいる。できるだけ多くの領域から痛みを捉えることが痛みの実像を浮かび上がらせるのに役立つ。そし て、折角なら、表現することを専門にしている人たちの声を多く聴くことにした。それは、詩や短歌や俳句といった短い表現の中に際立った言葉の力があると 思ったからだ。

しかし、多くの表現者の力を借りても、やはり痛みの全体を浮かび上がらせることはできない。これはあくまで私が切り取った痛みである。読者の皆さんには、これを切り口に、それぞれの仕方で痛みと痛みの向こうにあるものを感じ取って頂きたい。

世間には痛みに関する本がたくさんある。「痛みは消える」「痛みは除去できる」「痛みを我慢しないで」という文字が書店に並んでいる。しかし、わたしは 心のどこかで、痛みを取り除くことはやはりできないのだと感じている。がんの患者や慢性疾患の患者は増え続け、がんの痛みも慢性痛も増え続けている。痛み を取り除くための薬代に一日に何万円も必要とする医療が健全だとはとても思えない。不眠のために何十万もの人が睡眠薬を飲み、慢性痛のために何百万もの患 者が鎮痛薬を飲んでいる世界の現実を健全な社会とは思えない。

私の周りには日頃から患者の痛みを取ることに全身全霊を傾けて医療に取り組んでいる医師や看護師がいる。痛みを軽減させることができたことで患者から心 底感謝されている人たちがいる。私は、痛みがどんなに悲惨であるか知っているつもりだ。痛みによって身動きできず、人間性までも失われつつあるような患者 を知っている。痛みが除かれることで患者は人間らしさを取り戻すことができることも知っている。

しかし、どうしても取りきれない痛みがある。どうしても避けられない痛みがある。あるいは、どうしても必要な痛みがある。すべての痛みから人間を遠ざけ ようとすることは、人間にとって貴重なものに気づく機会を奪ってしまうことにもなる。人が痛みの壁の向こうにあるものを知らずに過ごすとしたら、それも不 幸なことである。この本が、痛みの向こうにある希望を見つける手助けになれば、こんなに嬉しいことはない。

【序章】痛みを考える
1.理解されない痛み
2.痛みの表現
3.描かれた痛み

【第1章】痛みと文化
1.国籍を持つ痛み
2.西洋の痛みの語源
3.日本語の痛みの語源
4.足が痛い
5.西欧の心身二元論
6.日本の風土と痛み

【第2章】十九世紀の痛み
1.キリスト教の影響
2.医学の進歩
3.十九世紀の痛みの詩
4.麻酔の始まり

【第3章】病苦の中の痛みの声・結核の痛み
1.結核の痛み
2.脊椎カリエスの痛み[造化の力]
3.胸郭成形手術の痛み[絶望しない力]

【第4章】病苦の中の痛みの声・がんの痛み
1.がんの痛み
2.がんの痛みと詩[草木の力]
3.がんの痛みと俳句[ユーモアの力]
4.がんの痛みと短歌[エロスの力]
5.がんの痛みと短歌[パトスの力]
6.がんの痛みと詩[病者の力]

【第5章】病苦の中の痛みの声・慢性の痛み
1.慢性の痛み
2.線維筋痛症の痛みと詩[メタモルフォーシスの力]
3.帯状疱疹後神経痛[老いの力]
4.画家の背負った痛み[大地と宇宙の力]
5.原因不明の痛み[いのちの力]
6.心因性疼痛障害[捨てる力]

【第6章】痛みの向こう
1.痛みの可能性
2.物質的恍惚の中の痛み
3.最後の光に貫かれる痛み
4.痛みに耐える無限の力

【第7章】現代社会における痛み
1.無痛への飢餓感
2.痛みの商品化
3.排除される痛み
4.痛みのバーチャル化
5.耐性の欠如
6.快適という不幸
7.痛みが生むトレランス=耐性=寛容
8.痛みの抑止力
9.痛みへの希望

【最終章】痛みが扉を開く
1.全人的な痛み
2.結ばれる痛み

あとがき